日本の芸能のルーツは、岩戸に隠れた天照大神を誘い出すために舞踊りを披露したという「天の岩戸伝説」に代表される神のもてなしにあります。神のもてなしとしての祭りは、やがてクローズな祭祀とオープンな祭礼とに分化し、平安時代に入り祭礼の方は次第に動的・華美になり、大衆が好む競馬や相撲、田楽などが取り込まれて行きました。さらに江戸時代には寄席や舞台などの娯楽性が付加され、歌舞伎のルーツとされる「お国おどり」もこの時代に誕生し、専用劇場として歌舞伎小屋が生まれたのです。かつての日本では農村歌舞伎などが非常に盛んで、地域ごとに能楽堂や芝居小屋があり、人々に娯楽を提供していました。昭和10年代には全国の芝居・寄席の数は2400を超えていたといわれます。「日本的観劇は大衆的な祭り」と共にあったと言えます。
一方明治・大正期に入り、西洋文化の発展に伴って公会堂と呼ばれる公立の集会施設が、各地で建設されるようになります。さらに戦後の経済復興とともに、公会堂を原型とした公共ホールの建設が始まります。コンサートやオペラの講演を目的とした「東京文化会館」に代表される公共ホールは、公共施設の名目上、多種多様な演者や観客の欲求に応えなければならず、多様な演目に対応できる反面、専門性に欠けた多目的ホールが全国に整備されていきました。
1990年代には世界的に見てもレベルの高い専用施設も一部で建設されてきましたが、実演芸術の上演に利用できる施設(公民合わせて約3000館)の7割は公共施設で、その大部分がいわゆる多目的ホールという状況です。
このような経緯を振り返ると、日本的観劇の特徴である「祭り的」な特性と、公共施設整備の名目での「多目的ホール」機能とのミスマッチが、大きな課題であることがわかります。
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