日本の鉄道事業において沿線開発のロールモデルになっているのが、阪急電鉄創業者の小林一三翁が考案したとされる「阪急モデル」です。
阪急電鉄宝塚線の前身である箕面有馬電気軌道において、都心ターミナル(大阪梅田の百貨店)開発と郊外行楽地(宝塚歌劇団、遊園地)開発及び沿線宅地開発の3点セットを展開したのです。
鉄道路線と沿線地域との間の経済的な関係性について、欧米では鉄道の黎明期から既に認識されていました。19世紀のドイツの政治経済学者であるフリードリッヒ・リストは「鉄道事業の外部効果による利益は、鉄道事業にかかる経費を超える」と指摘しています。鉄道の存在が地域経済を活性化させ、その地域経済の活力を鉄道会社も利用することで、自社の利益につなげることができるという構図です。
戦前は関西の私鉄各社を中心に、都心・郊外・沿線宅地が開発され、都心居住者の郊外への転出を促すため、「清潔で快適な郊外ライフスタイルの提案」が展開されました。
ただこの時点では沿線の宅地開発は徒歩圏が中心で、沿線駅も停留所機能のみのシンプルな構造だったようです。
高度成長期になると政府の持家政策に後押しされ、郊外の宅地開発が一気に進みます。
沿線人口の拡大は都心ターミナル百貨店の売り上げに貢献し、沿線各駅からバスやタクシーの2次交通が発達し、駅勢圏が大きく広がります。
それに伴い沿線各駅にも拠点ニーズが生まれ、これに対応して鉄道系の流通事業者が、生活利便サービス・商業施設を複合的に展開させていきます。
1980年代になると、鉄道会社による沿線コングロマリット化が進行し、二子玉川や新百合ヶ丘など都心から一定距離の拠点駅や、乗り換え拠点駅が生まれます。沿線の高齢化にも対応し、より高度な商材を扱う商業集積の再開発が進みます。
2000年代に入り少子高齢化が明らかになってくると、「地域連携」の名目で、2−3駅が連携した生活行動圏が想定され、公共施設や生活利便施設の集約・再編成が模索されるようになります。
肥大化した沿線施設のコンパクト化が目的で、前述した2030年頃を想定した沿線機能の再編成を目指しましたが、コロナ禍がそんな時代の動向を10年前倒ししてしまいました。
都心通勤を前提にした沿線開発モデルの崩壊です。
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