【内容】
街はずれの停車場
阪急モデルによる発展
沿線コングロマリットの誕生
1.街はずれの停車場
現在でこそ「駅」というと、鉄道の駅を指しますが、「駅」は、鉄道の創設以前からありました。
奈良時代に大宝律令で「駅馬・伝馬制度」が定められ、公用の旅行や緊急の通信のため、約16km毎に、駅を設け、馬や船を配置していました。
1872年の日本の鉄道開業当初は、列車を乗り降りする施設を「ステーション(一般的には『ステン所』)」と呼ばれ、その訳語として「停車場」が使われます。
1888年に、市制・町村制の施行によって、従来の駅がなくなったことにより、「駅」という名称が鉄道施設の意味に転用されるようになりました。
鉄道路線が広がり始めた当初は、線路は人口密集地を避け、用地確保が可能な「街の周縁部」に敷設されました。
そのため駅も街外れに設けられました。
現在に比べると、当時の東京の人口密集地は、下町を中心に非常に狭い範囲に限られていました。
今や大都会の中にある新宿駅や渋谷駅、品川駅などは、元々は住む人も建物も少ない「街はずれの停車場」だったわけです。
2.阪急モデルによる発展
この駅の状況を大きく変えたのが、1970年の万博が開催された大阪を拠点とする、阪急電鉄でした。
阪急電鉄創業者の小林一三翁が考案したとされる「阪急モデル」は、日本の鉄道事業において沿線開発のロールモデルになっています。
阪急電鉄宝塚線の前身である箕面有馬電気軌道において、都心ターミナル(大阪梅田の百貨店)開発と、郊外行楽地(宝塚歌劇団、遊園地)開発及び沿線宅地開発の3点セットを展開したのです。
鉄道路線と沿線地域との間の経済的な関係性について、欧米では鉄道の黎明期から既に認識されていました。
19世紀のドイツの政治経済学者であるフリードリッヒ・リストは「鉄道事業の外部効果による利益は、鉄道事業にかかる経費を超える」と指摘しています。
鉄道の存在が地域経済を活性化させ、その地域経済の活力を鉄道会社も利用することで、自社の利益につなげることができるという構図です。
戦前は関西の私鉄各社を中心に、都心・郊外・沿線宅地が開発され、都心居住者の郊外への転出を促すため、「清潔で快適な郊外ライフスタイルの提案」が展開されました。
ただこの時点では、沿線の宅地開発は徒歩圏が中心で、沿線駅も停留所機能のみのシンプルな構造だったようです。
3.沿線コングロマリットの誕生
高度成長期になると政府の持家政策に後押しされ、郊外の宅地開発が一気に進みます。
沿線人口の拡大は、都心ターミナル百貨店の売り上げに貢献し、沿線各駅からバスやタクシーの2次交通が発達し、駅勢圏が大きく広がります。
それに伴い沿線各駅にも拠点ニーズが生まれ、これに対応して鉄道系の流通事業者が、生活利便サービス・商業施設を複合的に展開させ、鉄道会社は「沿線コングロマリット」と言える存在になります。
1980年代になると、沿線コングロマリット化がさらに進行し、二子玉川や新百合ヶ丘など都心から一定距離の拠点駅や、乗り換え拠点駅が生まれます。
2000年代に入り少子高齢化が明らかになってくると、「地域連携」の名目で、2−3駅が連携した生活行動圏が想定され、公共施設や生活利便施設の集約・再編成が模索されるようになります。
郊外主要駅では物販・飲食だけでなく、時代のニーズに対応しながら、保険・旅行代理店、不動産仲介・リフォーム、クリーニングや学習塾などのサービス事業に加えて、子育て支援や高齢者介護支援サービス、医療施設や学校まで運営する場合があります。
大手私鉄の持つ豊富な資金力やノウハウは、行政や市民団体にはない大きな強みで、街を形成するパートナーとして CSRの観点だけでなく、地域の価値向上や地域経済の活性化によって、既存事業の収益性向上を見込むものです。
そして結果としてイメージアップ・ブランド力向上、持続的な収益の確保、新たなビジネスチャンスの発掘といった総合的な利益の享受を目指すものでした。
コロナ禍までは非常に説得力のある戦略だったといえます。
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